adhd
2024年12月10日
その他
岐阜県
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ADHD(注意欠如多動症)とは発達障がいの一種であり、生まれつきの脳の特性により注意欠如や多動症などの症状が特性として表れます。近年、認知が広まったことにより、ADHDの診断数は増加しており、特に大人のADHDの診断数は顕著に増加しています。
これから 書く ことは 私が ADHD であることを綴った 事柄であります。 なぜ 今頃 ADHD のことを書くことにしたのかは 半世紀 生きてきた中で 生きづらかったことや 悔しかったことを 振り返りながら これから書いて行こうと思います。
まず これから書くことは 私の生い立ちについて書こうと思います。 1972 年 9月8日 に 私が誕生しました。 生まれた時は 首に へその緒が 巻き付いており 仮死状態として、 生まれてきました。
冒頭のプロローグに 書いた通り 私は 仮死 状態で生まれてきました。 それでちょうど私が1歳のころ ある日の広報に 写真付きで 健康優良児 として 載せてもらいました。 奇跡の生還 と題して その話を 後に 私の母から聞いて 生き抜いてやると思いました。
奇跡の生還として生まれてきた私は 幼少期は 親の愛情を 受けてない 状態でした。 なぜならば 私が生まれてから 両親が 共働きをして いたからです。
ここで一つ ADHD の要素 で 私が思うところでは 親が愛情を注いでない子供たちは ADHD を 持っている 可能性が大きい と 思われます。 あとは自閉症スペクトラム も 同じく言えること だと思います。
そんな 愛情のない幼少期を迎え 当時 母方の おばあさんが私の面倒を 3歳まで見てくれました。 そしてその頃からおかしかったのは 新しい靴を買っても古い靴を履きたがる こだわりをもつようになりました。 これも一種の 特性 だと思われます。
幼少期を迎え 寂しい思いをしていた私は 近所 の幼 馴染みの 女の子 と 遊んでいました。 その女の子は とても気が強く男まさりで 私も 口喧嘩では負けそうになりました。 それでもその女の子 と 仲良く遊んでいました。
そうするうちに3年の月日が 経ち 父親の 仕事の都合で 引っ越しをしました。 またそこでも 引っ越しした先の 女の子と 遊んでいました。 でここで言えるのは 私の持論では ADHD の人は 女の子の方が 接しやすいんだと 思われます。 あくまでも これは私の持論であり 専門の方に聞いたことはありません。
ある日 その引っ越しした先の女の子が その女の子のお父さんの都合で そのお父さんの実家に行くことになりました。 その子が引っ越したことによって 寂しくなるなあと思わなかったのですが 私も同じく 他の 町へ 引っ越したので 何も感じなかったです。
そうこうしているうちに 幼稚園に私が上がり その頃から私は 今思うと 他のことと違うことをしていたので 何かおかしかったと思います。
ですから 私は幼稚園の頃は 他の男の子からいじめを受けていました。 またそこでも幼稚園でも 女の子とばかり遊んでいたので それが原因でいじめにあったと思います。
そして 月日が流れ 幼稚園を 半分以下しか行ってなかったです。 その理由を これから 書こうと思います。 幼稚園の時は体が弱く 生後1歳から 3歳まで健康だったのが 急に 病弱になったのは 分かりませんが 母親に聞いたところを後に 外へ 遊んできて 自宅に帰ってみたら熱が上がっていた そうです。
そう考えると この頃から ADHD の傾向が出てきたのかもしれませんね。 幼稚園は ですから 半分以下しか 行ってないです。
そうこうしてるうちに2年の月が経って いよいよ 小学校に 上がった頃 幼稚園の頃と思うと男友達が増えてきた頃でした。ちょっとここで私のスポーツの話をしますが 私は水が 小さい頃から嫌いになったので スイミングスクールに 幼稚園の年長から行ってました。 これは 母親が 私の精神が 弱い の を 知っていたからです。幼少の頃は いろいろな習い事をやっていました。 習字 ペン習字 そろばんスイミングスクール です。 ここでまた ADHD の話しますと ADHD の お子様がいらっしゃる 親御さんに一言言いたいのですが 小さな頃から 何事もチャレンジする精神を持たせた方が いいと思います。
なぜスポーツや 習い事を ADHD の子にやらせた方が といいかと 言いますと ADHD の子は集中力がない 落ち着きがない のが特徴であり スポーツや 習い事をさせることによってその集中力 落ち着きが 出てくる と思われる からです。
ちょっと話題がそれてしまいましたが申し訳なかったです。 小学校に上がると ADHD の症状が顕著に 現れてきました。 1つは 小学校1年生の時に 国語の授業で 私1人だけ 歌を歌ってました。 これは ADHD ではなく 自閉症 スペクトラム の症状で KY 空気が読めない状態でありました。
ちょっとここで 違う話をしますが ADHD のことを私の症状で表したんですが 最近私が思うのは ADHD とは 特性であり その人の個性であると思います。 ですから 何も悩むことはありません。 でも 中には 個性である その 生きづらさ が 辛くて 自殺行為を してしまう人が 増えてきました。またまた 脱線してすいません 話を。 というわけで 小学校時代は私は ちょっと風変わりなやつ と 思われ続けました。
さて どういう風変わりなやつ と言いますと これから 箇条書きにします。
その1。
油粘土は嫌いだった。
その2。
女子 に対して 苦手意識 になっていた。
その3。
小学校の頃から屁理屈を言うようになった。
まだたくさんありますけどとりあえずこの辺にします。
その1の 油粘土が嫌いだった の説明をします。
油粘土は とにかく 手にベタつき 嫌な感覚がありました。 油粘土を触った後手を洗うとき なかなか 油が落ちなくて 結構 洗うのが 困難なことが ちょっと人とは違うなと 思いました。
その2 女の子に対して 苦手意識を持つようになった。 これは 小学校の1年の時から 6年生まで 女性に対して 恥ずかしいという思いがありました。
その3の屁理屈を言うようになったに対しては、 小学校1年生から6年生まで 反抗期がなかったため 親に 敵対心を持つようになり 嘘を言っては親を困らせていました。 まあ これは 現在に至ってもそうですけどね。
親に敵対心を持った 行為 は 親のお金を盗んで 使ってたことです。 これはすごく 私も 親も 衝撃的なことでした。 ここで言えるのは 善悪 関係なく そういう行為をしたということは やはり そういう特性なのかなと 私は感じました。
親のお金を盗む行為をしたのは小学校5年生から中学校2年生まで でした。
これが私の反抗期 だったの かもしれませんね。 小学生の頃の 悪いことは これぐらいですね。 次は 中学校に行きます。
中学生に上がると 部活というものがあります。 中学校の部活は 前々から小学校の時の友達からバレーボール部に誘われていて その部活に入りました。 私は 運動は特に得意じゃないですが なぜ バレーボールに入ったのか 誘われて 未だに分かりません。 これは ADHD の忘れぽ さの 現れだと思います。
バレーボール部に入って 後悔したのは 先輩が厳しく ちょっと 玉拾いをミスしただけで 部活が終わると 部室に来いと言われ 下半身を 出せと言われ 私は それが嫌だったので 下半身を出して 先輩に 小便を かけました。 その後 先輩は 私を 殴りました。
大抵の人が 怖がるのですが先輩を。 私は 怖いとは思いませんでした。 なぜかと言うと 私は おかしい人だからです。 だから怖いもの知らずだったかもしれません。 そうこうしてるうちに 転 校 の話が出て その時は 彼女がいたので 非常に 困りました。
でも致し方ないな と思いながら また祖母のいる 母の実家に 移住しました。 ここで 余談ですけど 転校生って 珍しいから みんな 寄ってくるんですよね 女子も男子も。 だから 一気に 友達が 増えました。 転校する前の学校でも 友達がいましたが あまりいなかったです。ここで どうかは分かりませんが 思春期に入った途端 また 女性の 方が 接しやすくなり 彼女もいました。 結局 私は 女性に対して 母性を 求める 傾向にありました。 それは 幼少期に 母の愛が 足りなかったかもしれません。 私は中学校の時 のことはあまりよく覚えていません。 ただ単に 惰性で 生活していたような気がします。 だから 中学生の時は 突拍子もないことは なかったです。 ただ 中2の3学期の時に成績が ガクッと落ちたので 塾へ通って 猛烈に 勉強して 学年で 2番を 取りました。
勉強に関しては 中学では 2年生の時まで 親の目を盗んで金を盗んでいたので 成績が落ちたのだと思います。 そして 塾へ行かされ 学年で5教科2番を取りました。
ここで ADHD の人は 集中すれば 為せばなるということで すごい力を発揮することが分かりました。そして 難関の高校受験が やってまいりました。 私は職業高校に行きたかったですが 親が勝手に 歩いて行ける進学校に 行けと 言ったので 三者懇談で 近くの進学校に通うことになりました
高校に入ると勉強に ついていけず いつも赤点でした。 勉強しても勉強しても身につかない 困ったことに。 留年は してないけど 何とか 高校は 卒業しました。
そして高校の時は 彼女は全くいませんでした。 なぜなら 勉強勉強勉強勉強。
勉強の嵐 だったからです。 それに 私の父は一流大学を卒業していたため 親戚 の方から プレッシャーを与えられ 人生の中で一番つらかった時が高校時代でした。 仕方なく 大学を受けたものの 全部 滑って コンピューターの専門学校に行きました。そのコンピューターの専門学校を 無事卒業してなんと 一流企業の 会社へ 入社しました。 私の10代はこんなとこです。 1回 ここで ワンクール 終了ということで 閉めます。